梅の歴史について

食用としての梅

料理の塩加減や,物事の具合を表すとき、「あんばい」といいます。これは調味料の乏しかった古い時代に重宝された塩と梅、つまり「塩梅(えんばい)」に由来し、のちに現在の「あんばい」となりました。

わが国の梅は、中国からの移植説と日本古来の原産地説とがあり、定かではありませんが、文献・学者の多くは中国原産地説をとっています。 日本では、花がまず人々の関心をひき果実の利用はその後になったのに対し、中国では果実の利用が先であったようで、古事記が成立(712年)する200年余り前の「斉民要術」に梅の塩漬けが記録されています。

梅は奈良時代に、中国から薬木として渡来したとされています。平安時代には、青梅をかまどの上でカラスのように真っ黒に燻製(くんせい)にし、乾燥させた「烏梅(うばい)」を、解毒や下痢止めなどに利用したそうで、現在でも漢方薬のひとつになっています。

日本最古の医学書とされる『医心方(いしんほう)』(984年)にも梅に関する記述が見られ,当初はもっぱら薬用だったようです。鎌倉時代になると、武士の兵糧(ひょうりょう;戦陣の携帯用食料として梅の実が用いられるようになりました。

奈良・平安時代の貴族は観賞用、薬用に競って自邸に植樹したのです。渡来当初、実は生菓子にして食べていたようですが、効用が知れるに従って長期保存ができる塩漬法が考え出されました。

塩漬が“梅ぼし”として書物にはじめて登場したのが平安中期。

村上天皇が梅ぼしとコブ入り茶で病が平癒されたことや、日本最古の医学書『医心方』にもその名が記されています。

鎌倉時代、梅ぼしは僧家の点心やおやつで、室町時代に入りやっと武家の食膳にものぼるようになります。

室町から戦国時代にかけては、見るだけで唾液を催す食欲亢進剤としての役割や、戦場での「息合の薬」、即ち息切れ防止薬として使われていました。

梅ぼしが一般の家庭に普及したのは江戸に入ってからで、うどんやそばの薬味などに使われ次第に庶民の食卓へ普及していきました。

幕府が梅を植えることを奨励し、江戸中期には冬が近づくと梅ぼし売りが、納豆売りや豆腐売りと同じように、街を呼び歩き冬を告げる風物となったのです。

明治を迎え、明治十年から二十年代にかけて全国的に流行したコレラや赤痢の予防・治療に梅ぼしが用いられ、日清・日露戦争でも重要な軍糧として活躍しました。

以来、梅干しの需要が大きくなるとともに、現在では梅酒や梅ジャム・梅エキスなど、梅製品が数々生まれてきました。


日本と梅

日本人と梅とのかかわりは,実用的な面ばかりではありません。『万葉集』には梅の花を読んだ歌が多く、その数はなんと桜の2倍にもなります。当時は花見といえば梅で,他の花に先がけて春を告げるものとして、人々を魅了しました。平安時代に入ると貴族の紋章として梅の花が使われ、梅鉢、裏梅、ねじり梅など,その意匠はさまざまだったようです。このほか,着物の文様、器物のデザイン、絵画の題材となり、日本の生活文化に豊かないろどりを添えてきました。    



           東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ



 この歌は菅原道真が、無実の罪で京都から九州の大宰府に左遷されたとき、今日に残してきた梅を懐かしんで詠んだものといわれています。彼の死後、京の都では天災や疫病が相次ぎ、道真の怨念ではないかと恐れられました。これがきっかけで北野天満宮が建立され、今も命日の2月25日には梅花祭が盛大に催されています。







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